軟骨無形成症という疾患をもって生まれた息子・モーリー。
そんなモーリーの誕生までの出来事をお話したいと思います。
妊娠したらママもパパも家族みんなが『健康で元気な子が生まれますように』そう願うと思います。私も真にそう願う親の一人のでした。今は少し大きくなって時間も経っていろんなことを受け入れ始められていますが息子が生まれたときのことはとても衝撃的で辛い瞬間でした。ありのままを書いていくので少し重い内容になります。
※センシティブ・ネガティブな内容が多く含まれますのでご了承の上、お読みください。
尚、これは私に起こったリアルな心情と出来事です。軟骨無形成症や低身長症について、否定したり不快な思いを与える意図はまったくありません。その点だけご理解いただければ幸いです。
モーリーの生まれる前の出来事
結婚当初から子供は3人産めたらいいなぁと漠然と思っていました。
娘2人に恵まれ、そろそろ3人目の妊活しようかと始めたもののなかなか授かれませんでした…私も30代になっていましたし、年齢も関係しているのか流産と言えるのかわからないような超初期流産もあったりして、少し妊活を休憩しようと夫と相談していた矢先、妊娠が発覚しました。
アメリカの妊婦検診は何もなければ初診は10~12週前後のため、つわりと格闘しながら12週の初診予約を心待ちにしていました。
12週の検診で簡易のエコーをあてる医師の顔が思わしくありませんでした。
医師からは7週前後のサイズから赤ちゃんが成長していないことや心拍が聞こえないため、おそらく流産ではないか…とのことでした。精密なエコー検査後、医師から正式に稽留流産と言われ、自然排出を待つように…と言われいました。
流産と言われ、頭では理解できていてもどこか心に穴がぽっかり空いたような虚しさと悲しさを感じました。同時に私が生物系大学出身だったこともあり、割と落ち着いた気持ちでこの子は遺伝子の異常や何か生命にかかわる病気があったのかもしれない、生まれてきて苦しい思いをしないようにこういった定めだったのだと納得することもできました。
14週の時、妊娠の終わりが来て、お腹の赤ちゃんにさよならをしました。
妊娠の発覚と妊娠初期
それからしばらくしてありがたいことに再び妊娠することができました。
娘2人の時には吐きづわりで大変だったのでどこか妊娠するのが怖い気持ちもありました。でもモーリーの妊娠は2度ほどの嘔吐だけで気持ち悪さや体調不良はあるものの今までのつわりとは違いました。つわりと赤ちゃんの性別は関係ない、科学的根拠はないと言われるものの、今までとは全く違うつわりに男の子かな?と内心思っていました。
実は夫は第1子から男女どちらが生まれても健康で元気ならそれでいいと言っていたもののひそかに男の子を希望していたことを知っていました。父子家庭に育った夫はいつか息子ができたら自分と父との関係のように自分も息子との関係を築いていくのを楽しみにしていたのではないかなと思います。
そのため、おなかの子が男の子とわかったとき夫は静かに喜んでいました。
また、流産後の妊娠で少しセンシティブになっていた私はNIPT(新型出生前診断)を受けました。すべて陰性でホッとしたことを覚えています。
妊娠中期 順調な日々
とてもありがたいことに第1子、第2子の妊娠・出産時、母子ともに問題がなかったため医師も特に心配をしておらず、順調に出産に近づいていきました。
アメリカは妊娠中のエコー検査がとにかく少ないです。
母子どちらかにリスクのある場合は別ですが基本、妊娠期間中に2~3回しかやってくれないことが多いです。
21週のころ受けたエコー検査でも頭が少し大きいね!でも大丈夫!と言われただけで特に問題を指摘されることはありませんでした。夫が少し頭の大きい人だったので夫似かな?笑 とのんきに考えていました。
妊娠6か月の時には娘たちの大好きなアーティストのライブに娘たちを連れていってあげられるくらい割とパワフル妊婦だった私 笑 小さい2人の娘を追っかけながら問題なく妊娠期間を過ごしていました。
妊娠後期 次々起こる体の異変
順調かと思われた妊娠期も妊娠7カ月のとき、少し状況が変わってきます…
娘たちがもらってきた風邪がうつって、咳が止まらなくなりました。
妊娠中だし、薬はなるべく避けたい!!と思い、我慢に我慢を重ねていました。
咳が1か月ほど続いたころ…スーパーで買い物をしていて、大きな咳をした瞬間…『ボッコン!!』と体内で大きくはじける音がしました。同時に右わき下にとんでもない激痛を感じ、息をすることもあまりできないほどでした。
激痛過ぎて病院へ受診しに行くとおそらく肋骨の疲労骨折だろうと言われました。肋骨骨折は正直、治療としてできることがあまりないそうで、妊婦のためコルセットもできず安静にすることくらいしかないと言われました。レントゲンも撮らず、妊婦でも安全に飲める痛み止めと咳止めを処方してもらって帰宅しました。
その後も咳止めだけでは完全に止められない咳に悩まされながら、後に左側も同じように肋骨を骨折。体は日々激痛、ボロボロでこの頃には早く妊娠終わってくれ!辛すぎる!という気持ちでいっぱいでした…
妊婦さんの方は具合が悪いときは無理しすぎず、医師の診察・指示を受けましょう!必要があれば妊婦さんに安全なお薬を処方してもらってひどくなりすぎる前に症状を和らげましょう!!
ひどくなりすぎてからでは本当に大変です!これは声を大にして言いたいです。
後期の問題はこれにとどまりませんでした…妊娠8カ月頃、なぜか瞼のふちにできたニキビなようなもの。ものもらいだと思って一般診療を受診。抗生物質を摂取したものの治らず。
その後、眼科へ行ったのは出産1か月前。その時には瞼にビービー弾サイズのこぶのようなものが出来上がっていて、眼球が押されて視界や視力にも影響が出始めていました。眼帯で隠さないと気持ち悪いほどの見た目になっていて短期間にこんなにも大きくなったことに驚きでした。
結果、ものもらいではなく、霰粒腫でした。霰粒腫は瞼のふちにある目の保護のための油分を分泌する腺が何らかの理由でつまり、分泌物がたまり炎症を起こすというものでした。
あまりの大きさに眼科医もびっくり。「なんでもっと早く来なかったの?!」と言われました。私が「数週間で急激に大きくなったんです。」と説明すると医師は「こんなことあるんだね…」とさらに驚いてました。大きくなりすぎた霰粒腫は要手術と診断されました。産後にニューボーンフォトと家族写真撮影の予約を入れていたためその前に治したいという私のワガママを聞いてくださって出産2週間前に目の手術を受けました。目の手術って処置しているのが見えて本当に怖いんです…もう二度と受けたくない手術の1つです。
妊娠後期は次から次へと問題が起こり、正直かなりのしんどさを感じていました…
でもこれも厄落としだ!あとは元気な赤ちゃんを産むだけ。そう思っていました。
モーリー誕生
2022年 冬 陣痛から始まり、夫と娘2人と病院に向かいました。
出産自体は順調に進みました。入院したその翌朝2時頃、無事にモーリーが経膣分娩で産まれました。無痛分娩にしたので幸いにも肋骨骨折の痛みは麻酔で緩和されていて無事出産できました。

しかし、生まれた瞬間のわが子を見たときから嬉しさをあまり感じることができませんでした。
嬉しさ以上に何とも言えない不安と違和感を感じたのです。
この時の気持ちは今でも言葉で表現することができません。本当にただただ不思議な気持ちでした。
モーリーは3325g 48.25cmと体重も身長も平均でした。
でも、私の心のざわざわは全く落ち着かず。
胸元に置かれたわが子を喜びや幸福いっぱいで抱くはずが、今感じているこの不安は何なのだろうとただただ息子を何とも言えない感覚で抱いていました。二の腕と腿が短い気がする…そう感じた私は医師に相談しました。医師は「そんなことないでしょ?元気な男の子が無事生まれてよかったね!!」と何も疑問がなさそうでした。
産後の入院部屋に移動する際、車いすを押すナースに手足が短くないか…と何度も訴えかけました。ナースも「あなたの言っていることはわかる気がするわ。医師に相談してみるね。」と言ってくれました。
陣痛が始まってから一睡もしておらず、産後の疲れもあるはずなのに全く寝ることができませんでした。携帯で新生児の写真を検索しては目の前にいる息子の腕や足と比べ、そんなことない、病気なんてないと信じられる何かを探しました。私の考えすぎだと証明したい一心で検索しているのに、不安がどんどん増大していき、ただただ涙がこぼれました。
その後、産科医が部屋に来て息子の体の各所を計測し始めました。産科医が相談した小児科医もやってきて「レントゲンを撮らせてもらってもいいですか?」と聞かれました。私が「軟骨無形成症を疑っていますか?その診断をするためのレントゲンですか?」と聞き返しました。医師はものすごく驚いた顔をして「…はい。軟骨無形成症を疑っています。」と言い、私は「レントゲンお願いします。」と言ってその場に泣き崩れました。
医師が「軟骨無形成症を疑っています。」と言った瞬間、私の希望が閉ざされたような絶望を感じました。調べている時からずっと心のどこかで医師に「その可能性はありません。心配ありません。」そう言ってもらえることをずっと願っていました。医師の言葉はレントゲン検査は確定診断をするためのもので、もう軟骨無形成症だと確信して言っているように聞こえました。
妊娠後期のもろもろと出産ですでに体はボロッボロでした。流産も乗り越えた、肋骨骨折も耐えた、目の手術も頑張った、あとは元気な赤ちゃんを産むだけと純粋にそう思っていましたし、そのためだけに頑張ってこれていた私はこの時点でメンタルもズタボロになりました。
早速始まる育児…
不安でいっぱいな中、母子同室で育児が開始。
夫には出産後で子供たちも疲れているだろうからと家に帰って休むように言いました。
一人になるとより一層考え込んでしまって目の前にいる息子を見ながらすごい検索魔になっていました。しかし調べても軟骨無形成症ではないと思わせてくれる情報より、よりそうだと言える情報の方が多くて、すでに声がかれて声にならない声で泣き続けました。
お乳をあげる、号泣する、叫ぶ、調べる、おむつ交換する…今考えても普通の精神状態ではありませんでした。あまりに情緒不安定な私をチェックしにナースや清掃員さんが代わる代わる部屋に来たほど…よくCPS(アメリカの児童相談所)に連絡されなかったなと思うくらい自分でもどんな感情でいればいいのかコントロールできないほどショックと悲しみと不安でつぶれそうな自分がいました。

この時はこの先どんなことがあるかわからないけど写真だけは撮らなきゃとたくさん撮っていました。写真を撮りながらも手足の長さの確認をしてしまって、息子の誕生の嬉しさ、可愛さ、不安、つらさでとても複雑でした。医師からの診断が下りるまでの時間が本当に長く終わりがないように思えたのをよく覚えています。
今思い返してみて…
この時はとにかく現実に起こっていることが受け入れられずどんな感情よりも『不安』が勝っていたんだと思います。
中には妊娠中や産後、赤ちゃんに難病や障がいがあるとわかっても純粋にありのままのわが子をすぐに受け入れられる親御さんもいらっしゃいます。私もそうでありたかったですが、実際はすぐに受け入れることができませんでした。
息子が少し成長した今、少し余裕も出てきましたし、息子がとってもかわいくてかわいくて仕方ないです!大好きです!ただ未だに息子の難病を受け入れ切れているかと聞かれれば正直、わかりません。今でも様々なことに直面するたびに苦しくなる時や辛くなる時はあります。
そのくらい、自分の子供が大病や難病と診断されるのは親として非常に難しくて複雑な心境であることを身をもって実感しました。
→次は『診断~退院』までになります。